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0-この4つの附表からみると、 郷村師範学校の版業科!ゴは普通自ili範'子:校と比べると\ ーJU位 師範学校の科目すべ、てを受けるか、 農学に除lする科目が加え られている。 農業及び災自l

-農村経済及び合作・ 水利概要及び、郷村教育などがそれで\ いわゆる刻1)村師範学校の特徴

である科目が入れられている。 簡易師範学校以び郷村簡易師範学校は\ ずれ郷村義務 教育を推進するため、 郷村小学教員を養成する機関である。 そのJ受業科I�も\ 郷村に|刻辿 するものが加え られる一方、 軍事訓練l科白が|徐かれた。

以上中等師範教育機関の独立性復活の経緯を:ì&べ、て来たが\ ところで高等師範教育はど のようになっていたであろうか。

1932年12月21日、 国民中央執行委員会第四回第三次全体会議で通過した教育に関する決

議案によると、 「現有の師範大学は整理・&蓄につと め \ その組織 - 梨紅 - 訓練の各Jl�を 中等学校師資訓練の目的に適合させて普通大学と別にし\ かっ師範学校などとの連絡を蜜 にすべきであるJ r師範大学は師資訓練班を設け、 普通大学卒業者が教員になろう とした 場合には、 こ こで 1 年間の教育科目の授業を受けなければな ら なしリ とした 。

待遇と服務義務については、 師範学校と師範大学は、おおね学費を収めなくと も し'J r師範学校及び師範大学の学生は \ 修業完了後 、 教育部あるいは教育庁 \ 市教育局に よる指定地点に派遣されて服務する。 その期限が満了して初めて卒業証書が発給され\ 自 由に招聴に応じたり、 進学ができるようになる。 その規定された服務を避け\ あるいは服 務につとめない者は\ その資格を取り消し\ かっ費用を追徴する」ことになっている(在 73)。

この決議案は、 師範大学が独立的に設置されるようになる宣言である。 しかし当時は\

中学教員を養成する師範大学は北平師範大学l校しか残っていなかった。 他の師範大学は 普通大学と合併されて教育学部となったり、I�j属機関としての教育学院になってしまって いた。 そこの卒業生は教育経験がなく、 専門学科の水準も低かったため、 中学教員の任に は耐えなかったのである。 中学教員の養成は、 当面する問題となっていた。 そこで19 3 8年

7 月23日、 教育部は 師範学院規程 を頒布、 その中で師範大学と同じ レ、ルの教育機関

で ある独立師範学院の設立を規定した (注74) 。

その 規程ると、 師範学院は中学師資を養成する機関である。 独立師範教育機関 あいは大学の附属教育機関として設立できる

入学資格は高等学校の卒業生あるいは同等学歴の者で、 入学試験を受けて合格すれば人 2 3 1

-学できる。 修業年限は5年。 乍部は\ 国文ー外IJ�l訴・歴史 - 地JlIト公L(�火力: 算学 - _I'I!化

・ 博物・教育などに分けられ、 また体育・音楽 ・ 図画- 労作- 家政と社会教育などのlt/{医

科がある。 師範生は、 修業年|寝が満ち、 合格すれば学上の学位以び111等学校教員資格ðlfI� j 書を得ることができる。

1938年の師範学院規程は\ 師範教育発達土、 注目される法令であり、 最も具体的な別れ であるO 第一条は「師範学院は中華民国教育宗旨及び実施方針に基づき、'-1'等学校の他全 な教員を養成することを目的とするJ 0 修業年|坂は5年で、 最後のl年を日Ilï範実習に允て ることになっている。 師範学院各専修科は3年となっている。

この規程は、 幅広く中等学校教員を養成することを目的としている。 その刀法として\

師範学院は第二部を設置することができる。 募集対象は大学およびその他の学院の卒業生 で、 1年の教育専業訓練を実施する(第7条)。 また、 職業師資料を設け\ 専科学校卒業 生を募集してi年の師範専業の訓練をさせる(第10条)。 そして「師範学院は初級音L�をI�j 設することができる。 高級中学あるいは同等学校卒業生を収容するの 3年の教育学科及び 専業訓練を受けるJ (第11条)0 I師範学院は師範研究所を設け\ 師範学院卒業者や研究 能力のある者、 あるいは他大学の卒業歴を持つ者を募集するo �H究期限は2年J (第12 条)とある(注75)。 図示すると次のようになる。

「 師範学院卒業者入学.2年

「 師範研究科 一」 他大学卒業教歴者入学. 2年

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第一部(高級中学卒業者入学. 5年) 師範学院 ー

第二部(大学・学院卒業生入学. 1年)

ト 専修科(高級中学卒業者入学.3年)‘ 卜 職業師資科(専科学校卒業者入学. 1年)

」 初級部(高級中学卒業者入学. 3年)

師範学院は単独設立、 あるいは大学の中に設置することになっている。 この師範学院の 設置によって、 高等師範学校制度を復活させることができた。 現職教員の再教育実施は、

中学教員の質・量ともの養成にとっても有効な方法である。 なお\ 卒業生の服務義務年限 は5年(初級部・専修科は共に3年。 第二部・職業師資料は共に2年)となっている。

1947年国民党政府教育部の統計によると"' 1946年の時点で\ 全国における師範学院はJ() 下の通りである。

国立大学附設の師範学院は4校。

(1) 国立中央大学師範学院(南京) (2) 国立中山大学師範学院(広州、1)

(3) 国立j折江大学師範学院(杭州) (引 国立四川大学師範学院(成都)

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、,立で、独立している師範学院は9絞。

(1) 国立師範学院(衡山) (2) 国立西北師範学院(蘭州) (3) 国立北平師範学院(北平) (4) 国立毘明師範学院(毘明) (5) 国立女子師範学院(重慶) 省立で独立しているものは4校。

(1) 河北省立女子師範学校(天津)

(G) 国立長白師範学院(水古) (7) 国立貴|場師範学院(員|場) (8) 国立南寧師範学院(南寧) (9) 国立湖北師範学院(江|法)

(J) 江蘇省立師範学院

(2) 台湾省立師範学院(台北) (4) 川 省立教育学院 (以上の注70) 全国における高等師範学校は合計で17校\ 学生日,498人であった。 なお\ 国・ 公-私\/:

大学で、教育学系のある学校は2<<交であった(注77)。

1928年から1947年までの20年間における高等学校の卒業生は18.5万人、 そのうち高等自Ifi

範科 の卒業生は 2.1万人で、総数の 11.35%を占めている。 また1931年から1946年までの 中等専門学校の卒業生は54.67万人、 そのうち中等師範学校の卒業牛は36. 53万人で、 総 数の66.82%を占めている(注78)。

この時期は解放前の中国において、師範教育制度が最も充実していた時期であった(注 79)。

このように転換してきたアメリカ型師範教育の特徴は\ 以下のように言うことができよ つ。

1 . 中国社会の実情に応じ、また戦時に適応するため、師範教育機関を独立に設置する 制度が復活し、師範教育体系の多様化が求められた。

2. 三民主義教育の貫徹を図る義務教育の早急な実現および教員養成を計画的に進める ため、簡易師範学校、簡易師範科および郷村師範学校を創立するなど\ 教員の量的佐 保に重点、を置くこととした。

3 . 師 範学院の設置によって学術的性格と師範的性格との結合、 教員養成 と現職教育との 結合の改革を推し進めた。

以上のように中国の師範教育制は、1922年より実施に移され1930年代から中国の現ìJGに 合わせて修正を経た6 ・ 3 ・ 3制が、中華人民共和国成立後も、初期の頃まではその骨格 を維持していた。 民国期における師範教育制度は、日本に先立つことお年の1922年に\ 弔

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くもアメリカ型6 ・ 3 ・ 3制を採用したのであった。 確かに\ 民Llil f)J則のr:I!J ;I{èi数行におい

て学校数 ・ 学生数とも著しくi菌加]発展した。 しかし、 中国の社会と、 アメリカの社会との

聞には大きな差異があり、 また、 師範教育体制にも係々な問題がィ字企した。 さらに" rìU);l と、 外国の侵略を受けた経済的基礎の微弱な中lji!では\ 教員の質にしても量にしても\ 教 員養成の所期の目的を達成することはできなかったのである。

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<第四章 注>

注l 孫文(1866---1925.3.25)

政治家 広東省香山 県の人 '(.: は逃;仙 は 中山。 14歳 ってハ イに独り、

ホノルル教会学校に入学、 帰国後、 香港医学校に学び、 卒業後襖F'J (マカオ)で刷業。 そ の間政治結社「興中会」を結成、 革命運動に入る。 そのため、 欧米各国に亡命。 そのII-[j、

革命原理「三民主義Jを発表、 東京で中国革命同盟会総理となる(1905年)。 辛亥革命で 南京臨時政府大統領に就任したがきず、 世凱と妥協、 日本に亡命し中華革命党 組織した。 1919年、 革命党を中国国民党と改称。 , 24 年第1次国共合作に成功。 全国統 を企図し、 北伐軍を起こして北京に人ったが、 未解決のまま客死する。 著に '=..民主義l

「建国方略」がある。 (r新版世界人名辞典」 より 東京堂山版 昭和48年)

注2 教育部総務庁文書科編「教育法規嚢編J r官制類J 民国8年 注3 r大 清法規大全J 続編巻18 í教育部」勧学所教育 P. 1 注4 r学部奏答輯要J巻3 1909年版 P. 26--- 27

多賀秋五郎「近代中国教育史資料 ・ 清末編J所収

注5 í盟主学」闘争については、 阿部洋「近代学校と中国農民 一一 清末における投学風倒!

の考察J ( 日本教育紀要 本の教育J 5 講談社 1962年) 中村恒「清末学堂設立をめぐる江蘇農村社会の一断面J (r歴史教育J 10巻 11号 1962年)

注6 孫常持「察元培先生全集J í函電与公)演之部」 民国元年1月19日 商務印書館 1968年 P. 1044---1055

注7 í一、 従前各項各学堂均改称為学校。 監督、 堂長田E一律改称校長。

初等小学校可以男女同校。

一、 師範学校及中学以下的学校讃経科一律廃止。

四、 旧時奨励出身一律廃止。

五、 中学校 初級師範学校改為四年畢業」

多賀秋五郎「近代中国教育史資料一民国編上J 日本学術振興 1973年 P. 570

注8 陳青之「中国教育史J P. 648

注9 í我任教育総長、 発表<対子教育方針之意見>、 据 清季学部忠君、 尊孔、 尚公、

武、 尚実的五項宗旨而加以修正、 改為軍国民教育、 実利主義、 公民道徳、 世界観、

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